わたしは大阪生まれ、東京育ちの大阪人ですが、両親は父親が大阪市内生まれ。
一方母親は島根県出身で、石見銀山という世界遺産で近年割と有名になった、その玄関口にある「大田市」という町から、2つ3つ行ったど田舎の村の出身です。
その母の郷里には、山陰本線という日本で一番長いローカル線と言われる路線があり、最近はどうもそのあたりの赤字がひどくて、JR西日本の維持困難路線に含まれていたのには驚きましたが・・・とにかく、母の郷里あたりは非常に風光明媚な絶景が展開する区間で、多分、乗りテツには割と知名度がある区間ではないかと思います。
わたしはそんな島根に幼少期、何度か帰省したことがありますが、関東の人はイマイチイメージがわかないでしょうけれど、大阪からでも島根というのは意外と遠くて、急行で山陰本線をひたすら行くと、8時間くらいかかった記憶があります。
当時の山陰本線は、実態はローカルながら、一応日本海側の縦貫線でもあり、ブルートレインをはじめ、特急、急行と多くの華やかな列車が走る幹線で、昭和チビ鉄だったわたしの印象にも深く焼き付いている路線です。
私の中で非電化ディーゼル路線と言えば、イメージするのはまず、この山陰本線か、地元に近かった和歌山の、まだ電化前の紀勢本線かどちらかという感じでした。
ということで、久々に小学生の夏休み感想文的な想い出語りでスタートしましたが、以前念願の、わたしの一番幼い鉄道風景「阪和線・紀勢本線」は模型でなんちゃって再現出来ましたので、今回はそれを母の郷里、1970年代の山陰本線版をきどって、楽しんでみることにしました。
わたしの最初の優等列車乗車の記憶は、大阪から乗った、この車両による福知山線経由の急行「だいせん」号!、と言うことで、このキハ58型というのは、非常に思い入れ深い車両なんです。
ちなみにこれ、KATOが4両、Tomixが2両の寄せ集めです。
このディーゼル急行欲しさのあまり、模型趣味復活の最初、よく分からずに1970年代の、それこそこの車両が現役で活躍をしていた時代の古い、似ても似つかないTomixのモデルを2両3000円で掴まされてしまいました。
今はどうにも行き場が無くなってしまってます(´;ω;`)
しかしあれからチビチビと、まだリアルな後のモデルをジャンクで見つけながら、なんとか見栄えのする編成を集め始めたことは、過去に記事で書きました。
これでようやくディーゼル急行6両編成を組むことが出来るようになりましたが、良く見るとこれだけ非冷房車だ・・・って、どうでもいいか。
だから何だ?という気もしますが、自己満足なのでいいのだ!
わたしの乗った「だいせん」号が実際こんな順番の編成だったかは知りませんが、そのイメージでレールに乗せてみました。
このキハ58型は1970年代当時は、非電化路線の急行として、山陰本線だけでなく、九州から北海道まで、どこでも大活躍していました。
非常に少数ながら、わたしが後に引っ越す東京都内の、上野駅にも東北方面から来ていました。
わたしの記憶にある優等列車乗車の第一歩は、グリーン車キロ58型ということになります。
ちなみにこのNゲージには緑の帯がありませんが、わたしが乗った車両は、まだ緑の帯があったと思います。
大阪駅を出発したての、だいせん号をイメージ・・・って、過去に出した同じ写真ですみません。
山陰急行だいせんは、福知山線経由で、大阪から尼崎までの少しの間だけ東海道線を走るのです。
関西の東海道線は方向別の複々線で、同じ方面行きの電車がすぐ横を競走するように走るので、迫力があり面白いのです。
ちなみに東海道線の京都~大阪~神戸にも、阪和線や京浜東北線と全く同じ、このブルーの国電が走っていました。
今でもハッキリ覚えているのは、大阪駅を出発した直後、このブルーの103系が、私の乗るディーゼル急行を、いきなり真横からブチ抜いて行ってしまった事です。
この、たかが通勤電車にあっけなくブチ抜かれ、幼稚園児のクセに急行のグリーン車に乗って、鼻高々なわたしの天狗鼻は、いきなりへし折られてしまいました。
普通電車は途中の「塚本」駅に停車するので、すぐ抜き返したかとは思いますが、急行なんだから走って競走して華麗にブチ抜けよ!!と、まだまだ幼かった幼稚園児のわたくしは不満に思ったことを覚えています。
飾って見ているだけでも思い出がよみがえり、惚れ惚れとしてしまいます。
急行「だいせん」は、大阪の少し先の尼崎から、福知山線に入り山陰に向かいます。
福知山線と言えば、列車事故があったことで知られていると思いますが、今は電化され大阪の都市近郊路線となっています。
しかし当時は、尼崎で東海道線と別れると、汽車時代のままの前時代的な非電化ローカル線状態でした。
とまあ、そんな福知山線や山陰本線の細かい記憶は、なんせ幼稚園児ですから、ほぼありません。
とにかく長い、いつまでも着かない・・・と飽き飽きしたことしか覚えていません。
あと有名な餘部鉄橋を渡るとき、叔母さんが有名な鉄橋だからと、あれこれ教えてくれたような記憶があるようなないような・・・。
とまあ、帰りも相変わらず延々と「だいせん」グリーン車で、大阪に戻りました。
帰路でうっすらとある記憶も、やはり、落ち着きのない幼児ですから、ちっとも着かない・・・退屈という事です。
4歳の記憶なのに50年後の未だにあるくらいですから、相当飽き飽きしていたと思われるんですが、唯一非常に印象深いことがありました。
それは、もうすぐ大阪も近い福知山線沿線でのこと。
やがて日も暮れ、車窓も見えなくなり、あたりは兵庫県丹波の山奥で真っ暗・・・。
退屈さが行きつくところまで行きついてしまったわたしは、代わり映えのしない車内で、もうこのまま永遠に大阪なんか辿り着かないんじゃないか??と思い始めました。
しかし、そう思った途端、列車は宝塚駅に着き、そこからいきなりネオンきらめく、見慣れた大都会の風景に突然変貌したことです!!
あの時の急変化の衝撃は、幼稚園児ながらありあり覚えていますので、余程印象深かったのだと思われます。
全ジャンク品なので、かなり古そうな商品ですけれど、なかなかソックリないい出来の、完成度が高い商品で、買ってよかったと思っています。
そして、わたしは1年後の1974年、再び島根に大阪から帰省しました。
その時は、前年と違って往路は鉄道ではなくバスで帰ったことを覚えています。
大阪の弁天町というところから、日本交通の夜行の長距離バスが出ていて、それで帰りました。
これは路線バスなので、さすがに大阪から山陰までの長距離でこの路線型車両はないと思いますが・・・、確かトイレ付き車両だった記憶があります。
当時に近い時刻表復刻版で調べて見ますと、わたしの記憶通り、確かに弁天町から日本交通の長距離バスが山陰方面に出ています。
ですが、一般道経由の鳥取県の米子までの運転になっている。
わたしの記憶では高速道路に乗った記憶があり、行き先も島根まで入って、出雲の近くで降りて親戚が車で迎えに来てくれた記憶があるのですが、当時の記録とどうも一致しません。
臨時で夏休み期間、路線が延長されていたのかどうなのか、1974年の時刻表でも見ない限り、今となっては確認しようがなく、なんだかモヤモヤします・・・。
でも確かに日本交通のバスで帰ったのは間違いないんですよね。
そして島根の母の実家で夏休みを過ごして、帰路にわずかな距離ですが、非常に鉄オタ的に貴重な体験をします。
それは、どういう理由があったのか、朝早く「大田市」駅から、急行「さんべ」3号というのに、出雲市まで乗ったことです。
その「さんべ3号」というのは、機関車が引っ張る客車急行で、寝台車が連結されていました。で、おまけにこのさんべ3号には、異端車ということで一部ファンに有名らしい、こちらのオロハネ10型という、AB兼用寝台車両が連結されていたそうです。
わたしは元々、オロネ10型というA寝台車両が欲しくて、それと間違えてこのオロハネ10の、それも誰かがキットから作ったGMモデルのジャンクを、980円も出して買ってしまい、激しく後悔しました・・・・
しかし、後々調べてみると、これはなんと無駄ではなくて、わたしはこの車両が連結された、本州ではほぼ唯一の列車に乗車していたことが判明したのだ。
まあでも、このオロハネ10寝台車両に乗車した、というわけではないんですが。
とりあえずこれらを、古すぎてライトすらついていない、ジャンク1000円のTomix・DD51に繋いでみます。
ちなみにさんべ号はこれとは違う、DF50型という、箱型のディーゼル機関車が牽引していたという記録を見ました。
そう言われてみれば、絵本で見たDF50が先頭に立って、大田市駅に入線して来た記憶があるような気がします。
でもこのDD51が、早朝の闇の中、二つ目玉のライトを光らせて、轟音とともに入線したような、あやふやな記憶も何となくあるんですが、一体どっちの記憶が正しいんだろ??
このさんべ号は、夜九州の博多を出発し、山陰本線に入って鳥取県の米子あたりまで行く、今の時代には考えられない、寝台急行列車でした。
もちろん、6歳児にこの車両の明確な記憶などありませんが・・・。
さんべ3号・・・、車内は旧型客車で古臭く、床に新聞紙を敷いて寝ている人もいるほど満員で、当時は子供だったし、これにどこまで乗ってゆくのかもわからず、早く降りたいなと思ったことを覚えています。
それにしても今赤字で存廃取りざたされるこの路線に、こんな寝台急行が、夏休み期間というのもあったんでしょうが、満席で走っていたのがウソみたいです。
福岡から夜行で、島根や鳥取に行く需要が当時はそんなにあったのか?
わたしの母は、島根で都会に出ると言えば当時はまず「大阪」で、広島とか福岡なんてほとんど聞いたことがないと話していますが。
あの時代から、わずか4~5年後に作られたと思われるTomixの古いDD51モデル、まだ元気に動きます。
そして、最後は数か月前に、ジャンクで集めたこれの出番だ!!
さきほどの特急「まつかぜ」と似ていますが、パワーアップ型の、キハ181という車両です。
ボケているけれど、これはTomix製品だ!
このキハ181型の代名詞?今でも存続する、出雲と岡山を結ぶ、特急「やくも」号。
その理由でか、動力車が1200円くらい、あとは1000円くらいと、ラッキーなことに全部で6千円くらいで編成を揃えられました。
これもあまり店で見かけない模型なので嬉しい!
「おき」は、出雲あたりから、確か山口線経由で、下関のほうに行く特急で、今も存続しているのかな??
ちなみに、このキハ181型「やくも」には、後の最後の帰省時の復路で、もう一度乗車します。
今回は割愛しますが、わたしは1977年、東京からブルートレイン「出雲」号に乗車し、(今のところ)最後の島根帰省をします。
大阪ではなく、すでに東京都民だったので、ブルートレイン体験ができた訳ですが、当時のブルートレイン出雲号はEF65 500番台牽引、24系寝台車の編成で、勿論、これが最初で最後のブルートレイン乗車体験となってしまっており、またこれ以降大阪以西には足を踏み入れておりません。
鳥取、島根、いや、岡山広島山口、そして九州とか、今行ってみたくて仕方がありません!!
まあ長くなりますので、とりあえず今回はここまで。
動画もどうぞ!
コメント